プログラム - 25日(金)フェスティヴァルコンサートⅠ

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8月25日(金) フェスティヴァルコンサートI

公演概要

開催日 8月25日(金)
開演時間 18:00〜
会場 木曽文化公園文化ホール  会場アクセス
演奏曲
カルクブレンナー: 七重奏曲イ長調 Op.132
Ob.古部、Cl.中舘、Fg.河村、Hr.日高、Vc.伝田、Kb.星、Pf.寺嶋
グラズノフ: 弦楽五重奏曲イ長調 Op.39
2Vl.漆原 水谷、Vla.大島、2Vc.辻本 山崎
サン=サーンス: ピアノ四重奏曲 変ロ長調 Op.41
Vl.加藤、Vla.村上、Vc.伝田、Pf.津田

※演奏曲、演奏者は変更となる可能性があります。


✳︎未就学児童の入場はお断りします。

木曽音楽祭のコンセプト


木曽音楽祭のコンセプトは陽の当たらない室内楽曲にも陽を当てる

今回演奏されるFriedrich Kalkbrennerと Franz Berwaldは室内楽通の方でも余り聞いたことのない作曲家かもしれません。

カルクブレンナー(1785-1849)はショパンやリストが現れるまで、ヨーロッパ全土において、最も知られたピアニストであると考えられていました。カルクブレンナーは多作家であり、膨大な数のピアノ曲(全部で200曲以上になる)、ピアノ協奏曲、さらにはオペラも作曲しましたが、彼の膨大な作品は事実上ほとんど演奏される機会を失ってしまっています。今回演奏される 七重奏曲の編成もOb,Cl,Fa,Hr,Vc,Kb,Pfと、ヴァイオリンのない珍しい編成になっています。彼は音楽家以外にもプレイエルのピアノ製造会社に入社しピアノ製造にも関わり非常に裕福になりました。

ベルワルド, (1796 - 1868年)は、スウェーデンのヴァイオリン演奏家で作曲家。作曲は独学と言われています。音楽家としての収入が少ない為、友人に紹介されガラス工場のマネージャーとなり、才能を発揮し共同経営者となりました。長い間スウェーデン王立音楽アカデミーは彼の教授への応募を採用しませんでしたが、死の直前になってストック音楽院の教授に任命しました。この七重奏曲の編成は有名なベートーベンの七重奏曲と同じ編成になっています。
音楽祭ではフランスの作曲家の作品を余り取り上げてきませんでしたが、今回はサン=サーンスのPianoQuartetを演奏します。 クルークハルト, Schilflieder(葦の歌)Ob ,Vla,Pf 、 ドップラー  Nocturne op.19   Fl ,Vl, Hr ,Pf この2曲も編成の珍しい曲です。

マックス・レーガー(1873-1916)は今年生誕150年になります。作曲家、オルガン奏者、ピアニスト、指揮者と多彩な才能の持ち主で、室内楽曲の作品を多く残しています。 クラリネット五重奏曲はモーツァルト,ブラームスが有名ですがもう1曲入れるならこのレーガーの曲になります。レーガーはブラームスの影響を受け、クラリネットソナタを3曲作曲し、このクラリネット五重奏曲はレーガー最後の完成作品となります。モーツァルト,ブラームスの五重奏曲と違いクラリネットがソロでなく弦の中に溶け込み音楽を作っていくような曲になっています。
カール・ライネッケ, 八重奏曲は普通木管八重奏曲はオーボエ2本なのですが、この曲はフルート1、オーボエ1の少し変則的な編成になっています。普通の木管八重奏曲にない響きを楽しんで頂けると思います。
ヨハネス・ブラームス 弦楽六重奏曲第2番、アントニン・ドヴォルザーク ピアノ五重奏曲第2番は室内楽の名曲中の名曲です。
聞きにいらして頂き、室内楽の醍醐味を味わって下さい。
   
木曽音楽祭ディレクター 山本正治
                        


曲目解説

足立優司(いわきアリオス学芸員/小金井音楽談話室ディレクター)

カルクブレンナー/七重奏曲 イ長調 op.132
 1835年8月、『新音楽時報 Neue Zeitschrift für Musik』はフリードリヒ・カルクブレンナー(1785~1849)が「新しい七重奏曲」を、バーデン・バーデンで演奏したと報じている。『新音楽時報』はその前年、ローベルト・シューマン(1810~56)が創刊し、当時は全ての記事を彼が書いていたのだが、シューマンはカルクブレンナーの初期作品について評価していた。確かに、ショパン(1810~47)がパリへとやってくる1831年秋より以前に、カルクブレンナーが稀代の名ピアニストとして名を馳せたことは事実だった。実際ショパンはこのとき彼と出会い、親しい間柄になったことを喜ぶ手紙を友人に宛てて書き残している。その熱烈ぶりは、リスト(1811~86)ら同世代のピアニストが、「カルクブレンナーの隣に並ぶと、いないのも同然」だと記したほどだった。カルクブレンナーは1829年以来、ピアノ製造・販売・貸出を行うプレイエル社(Pleyel & Co.)の共同出資者となっていたこともあり、ショパンをイグナーツとカミーユのプレイエル父子に引き合わせ、またパリ・デビューのために尽力している。デビューコンサートで演奏されたショパンの〈ピアノ協奏曲第1番〉は、敬愛のしるしとしてカルクブレンナーに献呈された。しかし1840年代になると、カルクブレンナーの人気や名声は凋落の一途をたどる。実際、彼は極めて優れたピアニストであり、演奏技術面での洗練を追究した人物だったことから、彼が作曲したピアノを含む作品の数々も超絶芸的な側面が強く、ロマン派的な内容の深みに欠けていたと評されるようになった。にもかかわらず彼は、自らを「古典派最後の巨匠」と位置づけ、相応の待遇を求めたことから、周囲との軋轢が生まれていくことになる……
 ピアノと、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット、チェロ、コントラバスという珍しい編成のための〈七重奏曲 イ長調 op.132〉は、先述の通り1835年、カルクブレンナーがヨーロッパ各地で開催した演奏会で熱狂を巻き起こしていたさなかに作曲された。ウィーン古典派のカッサシオンやディヴェルティメント、セレナードなど、管楽合奏の喜遊曲的な伝統を取り込みつつも、技巧的で時としてショパンのように煌めくソロを聴かせるピアノとアンサンブル群との対話や旋律交代による音色のコントラストに重点を置いた、時代に見合った質の高い音楽エンターテインメントへと結実させている。

グラズノフ/弦楽五重奏曲 イ長調 op.39
 アレクサンドル・グラズノフ(1865~1936)は出版社と書店を営む裕福な家庭に生まれた。幼少期から楽才を示し、それが“ロシア五人組”のリーダーだったバラキエフ(1837~1910)の目に留まると、その紹介によって1879年より、リムスキー=コルサコフ(1844~1908)の下で学び始める。16歳で〈交響曲第1番「スラブ風」〉を作曲すると、それが裕福な材木商でアマチュアのヴィオラ演奏家でもあったミトロファン・ベリャーエフに認められ、彼が主宰する芸術家サークルに加わることになった。1884年にはベリャーエフに連れられてヨーロッパ各地を訪問し、そこでリストにも出会うなど、グラズノフの名は国際的に認められるようになっていく。彼が音楽を学んだ時代には、リムスキー=コルサコフが率いるペテルブルク音楽院(国民楽派)と、チャイコフスキー(1840~93)の弟子たちが跡を継いだモスクワ音楽院(アカデミー楽派)とが競合しながら、その両者を融合することによってロシア独自の音楽が創り上げられた時代であった。
 〈弦楽五重奏曲 イ長調 op.39〉は1891年、グラズノフが26歳のときに着手され、翌年完成された。シューベルト(1797~1828)の弦楽五重奏曲と同じく、チェロが2パートの編成を採っており、これによってベースラインとメロディ、ハーモニーを柔軟に受け持つことが可能となる。しかし決して鈍重になることなく、朗々とした響きと軽やかさを併せ持った作品に仕上がっている。第1楽章は、冒頭から12小節に及ぶヴィオラの独奏で始まる、8分の9拍子で上へ上へとひろがりを求める伸びやかな旋律の第一主題と、第1チェロで始まる、4分の3拍子でtranquilloの指示のある流麗な第二主題が、ともに穏やかで甘美な雰囲気を醸し出しているのだが、3連と2連のリズムによる音楽の流れ方の対比が、この楽章を特徴づけている。第2楽章スケルツォは、冒頭のテーマをピッツィカートで提示している。これはチャイコフスキーの〈交響曲第4番〉のスケルツォと同じ技法であり、さらに3連符と2連符を組み合わせたリズムの特徴は、翌年に作曲されることになるドビュッシー(1862~1918)の〈弦楽四重奏曲 op.10〉に影響を与えたともいわれるもの。第3楽章アンダンテ・ソステヌートは、ノスタルジックで叙情的な緩徐楽章。コーダに現れるハーモニクスの澄んだ響きは、思い出を大切にしまっておこうとするかのようだ。そして力強いロシア風の舞曲風の主題と、抒情的な副主題が巧みに組み合わされたロンド形式の終楽章が、次第にテンポを速めながら一気に全曲を終結へと導く。

サン=サーンス/ピアノ四重奏曲 変ロ長調 op.41
 19世紀後半のフランス音楽界を代表し、フランスにおける国民音楽の礎を築いたカミーユ・サン=サーンス(1835~1921)は、パリで内務省の官吏だった父のもとに生まれた。しかし父は息子が生まれて二週間もしないうちに亡くなってしまう。彼は母と義理の叔母に育てられ、その叔母が彼に最初にピアノを教えた。その後、メンデルスゾーン(1809~47)やカルクブレンナーの弟子であったカミーユ・スタマティ(1811~70)に本格的に師事し、10歳のときにはベートーヴェン(1770~1827)のピアノ・ソナタを全曲暗譜していた。同時に、科学、天文学、詩など多彩な分野に興味を持ち、やがてそれらの分野でも一流になっていく。13歳でパリ音楽院に入学、オルガンと作曲を学び、22歳でパリにおけるオルガニストの最高峰とされるマドレーヌ教会のオルガニストに就任。また、ベルリオーズ(1803~69)やショパン、リストから、“6人組”やストラヴィンスキー(1882~1972)にまで重なる長い作曲家人生において、あらゆるジャンルで膨大な作品を遺した。1861年から5年間勤めたエコール・ニーデルメイエールでは、後に盟友となるフォーレ(1845~1924)を教えている。1871年には、フランスの音楽を享楽的なものから立て直し、“フランスの精神を持って”芸術的・アカデミックな音楽を確立すべく「国民音楽協会」を設立し、それまでフランスにおいては“ドイツ的”と軽視されてきた交響曲や室内楽などの器楽曲に力を入れ、サン=サーンスはこの分野でも重要な役割を果たした。
 〈ピアノ四重奏曲 変ロ長調 op.41〉は1875年に作曲され、同年3月にヴァイオリンのパブロ・デ・サラサーテ(1844~1908)、ヴィオラのアルフレッド・ターバン(1847~96、パリ・オペラ座管弦楽団首席ヴァイオリン奏者で、サン=サーンスから〈ロマンス op.48〉を献呈された。このときはヴィオラを弾いた)、チェロのレオン・ジャカール(1826~86、エドゥアール・ラロから〈チェロとピアノのためのアレグロ op.16〉を捧げられた)との共演で初演された。この年には1月に〈交響詩「死の舞踏」〉が、また10月に〈ピアノ協奏曲第4番〉が初演されており、私生活でも20歳年下のマリーと結婚するなど、公私ともども充実した時期だった。第1楽章はピアノの和音連打で始まり、ピアノと弦楽器との対話によって、動と静、和音と装飾のフレーズが対比されていく。静謐な雰囲気の中、ヴァイオリンによって叙情的な第二主題が提示される。第2楽章アンダンテ・マエストーソでは、ピアノによる劇的な主題に、弦楽器によるコラール風の主題が割って入り、これら2つの主題をもとに対位法的に展開される。Andanteがこれほど力強く展開されることは、緩徐楽章の不在を意味するようにも感じられる。続く第3楽章は、ロンド形式のスケルツォ。ロンド主題が回帰するたびにテンポを上げ、最後はPrestissimoに至るが、期待されるクライマックスは訪れず、さりげなく結ばれた先に、同じ調で開始される終楽章が位置する。ここではシューマンを彷彿とさせる半音階が登場し、第2楽章のコラール主題の登場により、この作品が持つ循環的な性格も明らかになる。第1楽章冒頭の主題が、冒頭の変ロ長調で回帰し、この2つの主題によるフーガを経て華やかに結ばれる。


演奏者紹介

※演奏者は変更となる可能性があります。

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