プログラム - 26日(土)フェスティヴァルコンサートⅡ

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8月26日(土) フェスティヴァルコンサートII

公演概要

開催日 8月26日(土)
開演時間 16:00〜
会場 木曽文化公園文化ホール  会場アクセス
演奏曲
ベルワルド: 大七重奏曲 変ロ長調
Cl.中舘、Fg 岡本、Hr 日橋、Vl 白井、Vla大島、Vc辻本、Kb.星
クルックハート: 葦の歌 Op.28
Ob.古部、Vla.村上、Pf.津田
ドップラー: ノクターン Op.19
Fl.佐久間、Hr.日高、Vl.水谷、Pf.津田
レーガー: クラリネット五重奏曲 イ長調 Op.146
Cl.山本、2Vl.漆原 白井、Vla.佐々木、Vc.山崎

※演奏曲、演奏者は変更となる可能性があります。

✳︎未就学児童の入場はお断りします。

木曽音楽祭のコンセプト

木曽音楽祭のコンセプトは陽の当たらない室内楽曲にも陽を当てる

今回演奏されるFriedrich Kalkbrennerと Franz Berwaldは室内楽通の方でも余り聞いたことのない作曲家かもしれません。

カルクブレンナー(1785-1849)はショパンやリストが現れるまで、ヨーロッパ全土において、最も知られたピアニストであると考えられていました。カルクブレンナーは多作家であり、膨大な数のピアノ曲(全部で200曲以上になる)、ピアノ協奏曲、さらにはオペラも作曲しましたが、彼の膨大な作品は事実上ほとんど演奏される機会を失ってしまっています。今回演奏される 七重奏曲の編成もOb,Cl,Fa,Hr,Vc,Kb,Pfと、ヴァイオリンのない珍しい編成になっています。彼は音楽家以外にもプレイエルのピアノ製造会社に入社しピアノ製造にも関わり非常に裕福になりました。

ベルワルド, (1796 - 1868年)は、スウェーデンのヴァイオリン演奏家で作曲家。作曲は独学と言われています。音楽家としての収入が少ない為、友人に紹介されガラス工場のマネージャーとなり、才能を発揮し共同経営者となりました。長い間スウェーデン王立音楽アカデミーは彼の教授への応募を採用しませんでしたが、死の直前になってストック音楽院の教授に任命しました。この七重奏曲の編成は有名なベートーベンの七重奏曲と同じ編成になっています。
音楽祭ではフランスの作曲家の作品を余り取り上げてきませんでしたが、今回はサン=サーンスのPianoQuartetを演奏します。 クルークハルト, Schilflieder(葦の歌)Ob ,Vla,Pf 、 ドップラー  Nocturne op.19   Fl ,Vl, Hr ,Pf この2曲も編成の珍しい曲です。

マックス・レーガー(1873-1916)は今年生誕150年になります。作曲家、オルガン奏者、ピアニスト、指揮者と多彩な才能の持ち主で、室内楽曲の作品を多く残しています。 クラリネット五重奏曲はモーツァルト,ブラームスが有名ですがもう1曲入れるならこのレーガーの曲になります。レーガーはブラームスの影響を受け、クラリネットソナタを3曲作曲し、このクラリネット五重奏曲はレーガー最後の完成作品となります。モーツァルト,ブラームスの五重奏曲と違いクラリネットがソロでなく弦の中に溶け込み音楽を作っていくような曲になっています。
カール・ライネッケ, 八重奏曲は普通木管八重奏曲はオーボエ2本なのですが、この曲はフルート1、オーボエ1の少し変則的な編成になっています。普通の木管八重奏曲にない響きを楽しんで頂けると思います。
ヨハネス・ブラームス 弦楽六重奏曲第2番、アントニン・ドヴォルザーク ピアノ五重奏曲第2番は室内楽の名曲中の名曲です。
聞きにいらして頂き、室内楽の醍醐味を味わって下さい。
   
木曽音楽祭ディレクター 山本正治

曲目解説

ベルワルド/大七重奏曲 変ロ長調
 1911年、カール・ニールセン(1865~1931)が、スウェーデンの作曲家ヴィルヘルム・ステーンハンマル(1871~1927)に宛てた手紙にこう記した。「マスコミやお金、外部の権力は、素晴らしい芸術を害することも、助けることもできないというのが私の確たる信念だ。前進し、創作し、立ち上がる、そのような純粋で優れた芸術家の中にのみ、それは見出される。あなた方スウェーデン人は、その最も素晴らしい例を知っている――ベルワルドだ」。
 そのフランツ・ベルワルド(1798~1868)は、1773年に王立歌劇場管弦楽団に加入するためスウェーデンに移住したヴァイオリニストの父クリスティアンの息子として、ストックホルムで生まれた。彼の一族は17世紀以降、ドイツやデンマーク、ロシア、スウェーデンでヴァイオリン、フルート、オーボエ、ファゴット、歌手を輩出した音楽家の家系であり、彼も父からヴァイオリンを学び、10歳でデビューしている。15歳の1811年に王立管弦楽団の指揮者だったエドゥアール・デュプイ(ca.1770~1822)に師事、翌年には同団の第一ヴァイオリン奏者となり、作曲も学び始めた――独学といわれる彼だが、その基礎をデュプイに学んだとも考えられている。1818年には一旦王立管弦楽団を辞し、自作の発表のため音楽雑誌の発行に乗り出したが、翌年には資金難に見舞われてしまう。また1818年1月にストックホルムの証券取引所に併設された大ホールで行われた演奏会で、自作の《七重奏曲 変ロ長調》が初演されたとされている。当時ベートーヴェンの〈七重奏曲 op.20〉がストックホルムで度々演奏されていたが、ベルワルドもそれを聴いていたのだろう。この「七重奏曲」はベートーヴェンと同じ編成で書かれていたが、芳しい評判を得ることができず、自筆譜も失われてしまった。彼は捲土重来を期し、1820年に王立管弦楽団のヴィオラ奏者として復帰し、28年まで在籍する。
 今日まで遺されている〈大七重奏曲 変ロ長調〉は1828年12月、ストックホルムで“新曲”として演奏された。この作品が失われた《七重奏曲》の改訂版なのかどうかは定かではないが、同じ調、同じ編成の作品のため、その可能性もある。彼はこの年、奨学金を獲得して翌年からベルリンに留学することが決まっており、この演奏会は「告別演奏会」の一環であった。本作は批評家諸氏から「新作」として扱われ、概ね好評を得ている。特に緩徐楽章の途中にスケルツォを挟み込み、トリオも含めた「緩-急-緩-急-緩」の構造を取らせたことは斬新なアイデアであり、後の作品でも用いられることになる。

クルックハート/葦の歌 op.28
 アウグスト・クルックハート(1847~1902)は、J.S.バッハ(1685~1750)が宮廷楽長を務めたことで知られる中部ドイツのケーテンに生まれた。幼い頃より音楽を学んだ彼は、指揮者としてポズナン(当時プロイセン領。現ポーランド)、ノイシュトレーリッツ、リューベックなどの劇場で活動し、1869年、ヴァイマール宮廷楽団の楽長に就任。そしてこの街でリストと出会い、親交を結んだ。さらにワーグナー(1813~83)の知己も得ることになり、「新ドイツ楽派」から大きな影響を受けることになった。しかし一方で、彼はブラームス(1833~97)を通じてシューマンに強く惹かれ、その影響を強く受けた作品も遺している。
 〈葦の歌 op.28〉はワイマール時代の1872年に、ハンガリー出身、ウィーンで活躍したニコラウス・レーナウが大自然をモティーフにしながら、その中で生きる主人公の深い心の内を描いた5篇の連詩である『葦の歌』から着想を得て書かれた、オーボエ(またはヴァイオリン)とヴィオラ、ピアノの三重奏のための作品である。『葦の歌』はレーナウの代表作で、以前にはメンデルスゾーンがこの中の第5篇に、後にはシェーンベルク(1874~1951)が第1篇、アルバン・ベルク(1885~1935)が第3篇に作曲し、いずれも名曲として知られている。しかしクルックハートは歌曲ではなく、より抽象性の高い器楽として作曲する方法を選びながら、スコアの五線上にはレーナウのテキストを書き込んでおり、それは表題性を重視した「交響詩」の精神に近いものといえるだろう。事実、この作品はリストに献呈されている。一方、彼が副題につけた”Fünf Phantasiestücke”(5つの幻想的小品)という言葉からも連想されるように、その音楽にはシューマンから受けた影響が色濃く感じられることも事実だ。報われなかった愛を胸の内に抱えながらさ迷い歩く「私」は、日が暮れた森の中でにわか雨に、さらに池のほとりでは嵐が、彼女の幻影を「私」に見せ、最後は月明かりのもと、「私は涙ぐみながら眼差しを池に落とす;あなたへの甘美な思いが、静かな夜の祈りのように私の魂の芯を突き通す」と謳われた静かな諦観のうちに、全曲が閉じられる。

ドップラー/ノクターン op.19
 フランツ・ドップラー(1821~83)は、ポーランド国境に近いウクライナの街で、当時オーストリア領ガリツィア州の州都であったレンベルク(現レヴィウ)に生まれた。一家はハンガリーにルーツを持つ音楽家の家系であり、彼もオーボエ奏者兼作曲家であった父ヨーゼフから手ほどきを受けて才能を開花させ、13歳のときにウィーンにデビュー。18歳でブダペスト歌劇場の首席フルート奏者に就任し、その後ウィーン宮廷歌劇場の首席フルート奏者を経て、首席指揮者へと昇り詰めた。また1864年から67年まで、ウィーン音楽院フルート科教授も務めている。4歳下の弟カール(1825~1900)もフルート奏者であり、兄弟のデュオはステージ演出も華やかで、絶大な人気を博した。
 〈ノクターン op.19〉は、フルートとそれ以外の楽器との組み合わせによる室内楽作品の一つとして書かれたものだ。初版年が記録されていないが、続く作品番号の〈愛の歌 op.20〉は1866年に出版されていることから、恐らくその前か、同時期に出版されていると考えられる。なお、彼のもう一曲の〈ノクターン op.17〉はフルートとピアノのデュオ。ノクターンとは「夜(ラテン語でNox)に捧げる歌」という意味の自由な形式の小品で、西ヨーロッパを旅したドップラーにとって、サロンで絶大な人気を誇ったノクターンは、ぜひ取り組みたいジャンルだったと考えられる。曲はピアノの序奏から始まり、ホルンによって奏でられる伸びやかなレガートのメロディが、フルート、ヴァイオリンへと受け継がれていく。フルートのトリルは、夜に鳴く小鳥の声をイメージしたものだろう。

レーガー/クラリネット五重奏曲 イ長調 op.146
 世紀の転換点に立ち、その狭間で高度な作曲技法がシェーンベルクからも絶賛されたマックス・レーガー(1873~1916)は、バイエルン王国ヴァイデンの近郊で、学校教師の家庭に育った。早くからピアノとオルガンのレッスンを受けて楽才を顕し、1891年には最初の室内楽作品が出版されている。1901年、彼は家族とともにミュンヘンに移り住んだが、新ドイツ楽派の聖地でもあったミュンヘンでは「絶対音楽の作曲家」と見なされ、大衆からも批評家からも敵対視された。1906年には〈シンフォニエッタ op.90〉の初演が失敗に終わり、翌年、彼はライプツィヒ音楽院からの誘いを受けて活動の場を変えた。1911年にはマイニンゲン宮廷歌劇場の指揮者に任命され、自作の精力的な演奏をこなしたが、過労がたたって1914年には職を辞している。翌年イェーナに移り住んで、その地で2年後の5月11日に43歳での早すぎる死を迎えるまで、重要な作品を次々書きあげた。これらの作品で彼は、中期までの荒々しさを克服し、成熟した、ほとんど古典主義的な、純化された作風を見せている。
 モーツァルト、ブラームスの系譜に連なるレーガーの〈クラリネット五重奏曲 op.146〉は、彼の最後の作品である。一度書いた終楽章を破棄し、新たに変奏曲を書きあげて全曲が完成したのは1915年12月のことだった。ブラームスが完成した最後のソナタである〈クラリネット・ソナタ第2番 op.120-2〉の終楽章も変奏曲であり、その伝統に連なることを、彼自身が強く意識していたように思われる。最終的な修正が終わったのは翌4月であり、5月1日に自筆譜が楽譜出版社シムロックに送られている。マイニンゲン時代に出会った、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831~1907)の弟子であるシュトゥットガルトのヴィオラ奏者、カール・ヴェンドリング(1875~1962)に献呈書を手渡したのは、レーガーが心筋梗塞で亡くなる6日前のことだった。レーガーの死後、出版社とのやり取りと校訂作業は友人のオルガン奏者カール・シュトラウベ(1873~1950)が引き継ぎ、7月に出版されている。
 レーガーはこの作品の中でクラリネットを、モーツァルトやブラームスのように弦楽四重奏と“対置”するのではなく、アンサンブルに“溶け込ませる”ことで、この楽器が持つ柔軟性、敏捷性、音色の融和性を生かし、楽曲に豊かなコンテクストを与えようとした。スケルツォ楽章ではヴィオラに特別な意味を持たせて、クラリネットと“対話”させている。そして終楽章は主題と8つの変奏からなり、その最後、第8変奏の終わり12小節に記された指示は、(Sostenuto)molt espressivoに始まり、穏やかに溶けていくような、静かな“別れの曲”となっている。初演は10月29日、ライプツィヒのゲヴァントハウスにおいて、同管弦楽団首席クラリネット奏者のハインリヒ・バーディング(1896~1925)とゲヴァントハウス弦楽四重奏団によって行われた。ヴェンドリングがクラリネット奏者のフィリップ・ドライスバッハ(1891~1980)とともに、自身の弦楽四重奏団によってこの曲を公開で初演したのは、11月6日にシュトゥットガルトで開催された「レーガー記念コンサート」においてであった。Signalken für die Musikalische Welt(『音楽界へのシグナル』)誌は、この曲についてこう述べている――「この優美な作品は、穏やかな秋の光が黄金色に染まるような、深く神聖な安らぎを表している」。

足立優司(いわきアリオス学芸員/小金井音楽談話室ディレクター)


演奏者紹介

※演奏者は変更となる可能性があります。

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