プログラム - 27日(日)フェスティヴァルコンサートⅢ

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8月27日(日) フェスティヴァルコンサートIII

公演概要

開催日 8月27日(日)
開演時間 14:00〜
会場 木曽文化公園文化ホール  会場アクセス
演奏曲
ライネッケ: 八重奏曲 Op.216
Fl.佐久間、Ob.古部、2Cl.山本 中舘、2Fg.岡本 河村、2Hr.日橋 日高
ブラームス: 弦楽六重奏曲 第2番 ト長調 Op.36
2Vl.白井 水谷、2Vla. 村上 大島、2Vc.山崎 伝田
ドヴォルザーク: ピアノ五重奏曲 第2番 イ長調 Op.81
2Vl.加藤 漆原、Vla.佐々木、Vc.辻本、Pf.寺嶋

※演奏曲、演奏者は変更となる可能性があります。

✳︎未就学児童の入場はお断りします。

木曽音楽祭のコンセプト

木曽音楽祭のコンセプトは陽の当たらない室内楽曲にも陽を当てる

今回演奏されるFriedrich Kalkbrennerと Franz Berwaldは室内楽通の方でも余り聞いたことのない作曲家かもしれません。

カルクブレンナー(1785-1849)はショパンやリストが現れるまで、ヨーロッパ全土において、最も知られたピアニストであると考えられていました。カルクブレンナーは多作家であり、膨大な数のピアノ曲(全部で200曲以上になる)、ピアノ協奏曲、さらにはオペラも作曲しましたが、彼の膨大な作品は事実上ほとんど演奏される機会を失ってしまっています。今回演奏される 七重奏曲の編成もOb,Cl,Fa,Hr,Vc,Kb,Pfと、ヴァイオリンのない珍しい編成になっています。彼は音楽家以外にもプレイエルのピアノ製造会社に入社しピアノ製造にも関わり非常に裕福になりました。

ベルワルド, (1796 - 1868年)は、スウェーデンのヴァイオリン演奏家で作曲家。作曲は独学と言われています。音楽家としての収入が少ない為、友人に紹介されガラス工場のマネージャーとなり、才能を発揮し共同経営者となりました。長い間スウェーデン王立音楽アカデミーは彼の教授への応募を採用しませんでしたが、死の直前になってストック音楽院の教授に任命しました。この七重奏曲の編成は有名なベートーベンの七重奏曲と同じ編成になっています。
音楽祭ではフランスの作曲家の作品を余り取り上げてきませんでしたが、今回はサン=サーンスのPianoQuartetを演奏します。 クルークハルト, Schilflieder(葦の歌)Ob ,Vla,Pf 、 ドップラー  Nocturne op.19   Fl ,Vl, Hr ,Pf この2曲も編成の珍しい曲です。

マックス・レーガー(1873-1916)は今年生誕150年になります。作曲家、オルガン奏者、ピアニスト、指揮者と多彩な才能の持ち主で、室内楽曲の作品を多く残しています。 クラリネット五重奏曲はモーツァルト,ブラームスが有名ですがもう1曲入れるならこのレーガーの曲になります。レーガーはブラームスの影響を受け、クラリネットソナタを3曲作曲し、このクラリネット五重奏曲はレーガー最後の完成作品となります。モーツァルト,ブラームスの五重奏曲と違いクラリネットがソロでなく弦の中に溶け込み音楽を作っていくような曲になっています。
カール・ライネッケ, 八重奏曲は普通木管八重奏曲はオーボエ2本なのですが、この曲はフルート1、オーボエ1の少し変則的な編成になっています。普通の木管八重奏曲にない響きを楽しんで頂けると思います。
ヨハネス・ブラームス 弦楽六重奏曲第2番、アントニン・ドヴォルザーク ピアノ五重奏曲第2番は室内楽の名曲中の名曲です。
聞きにいらして頂き、室内楽の醍醐味を味わって下さい。
   
木曽音楽祭ディレクター 山本正治

曲目解説

足立優司(いわきアリオス学芸員/小金井音楽談話室ディレクター)

ライネッケ/八重奏曲 op.216
 カール・ライネッケ(1824~1910)は、当時デンマーク領であったアルトナというハンブルグにほど近い小さな町に生まれた。著名な音楽教育者であった父に手ほどきを受けて7歳から作曲を始め、11歳からはピアニストとしての活動を開始している。19歳でライプツィヒに留学し、メンデルスゾーンやシューマンに師事。22歳で王都コペンハーゲンの宮廷ピアニストに任じられ、彼の演奏を聴いたリストからは2人の娘たちの指導を委ねられたこともある。1860年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者として招かれ、同地で音楽院のピアノ科と作曲科の教授も兼任して、ライプツィヒを音楽の一大中心地に押し上げた。19世紀ドイツ語圏で最大級の音楽家であり、その作品や評判は遠くロシアにまで広まっていた。
 〈八重奏曲 op.216〉は1892年、ライプツィヒ音楽院院長として多忙な中で書かれた作品である。モーツァルトの管楽セレナードなどにみられる「ハルモニー・ムジーク」の編成から、オーボエ1本をフルートに置き替えた独自の編成で、時に重なり合い、時にソロで旋律を奏でることで色彩の幅が豊かに広げられている。アンサンブルの妙技が尽くされた1楽章は、冒頭のフレーズから豊かな温かみのある響きが混然一体となって広がる。続く第2楽章は、メンデルスゾーンのようなリズムの工夫による、軽妙さを備えたスケルツォ。オーボエによって歌われるカンタービレが美しい緩徐楽章の第3楽章に続き、フルートとクラリネットがリードする、細かい音符の掛け合いが楽しい終楽章が続き、全編に魅力の尽きない曲だ。

ブラームス/弦楽六重奏曲 第2番 ト長調 Op.36
 1853年9月30日と翌10月1日の2日間、20歳のヨハネス・ブラームス(1833~97)がシューマン夫妻の自宅を訪問している。この、緩やかにカールした髪の美青年の来訪は、しかしシューマンが心労と病気のために精神を病み、デュッセルドルフ市音楽監督の地位を奪われようとしていた時期に当たってしまった。そのような状態にもかかわらず真の芸術家、誇り高き批評家であった彼はブラームスの才能を見抜き、「新しき道」と題した評論を発表して、この青年を世に出そうとした。妻クララ(1819~96)も日記に、「彼もまた神から直接遣わされて来たような人である」と記している。この日以来、ブラームスはシューマン夫妻にとって最も大切な友人のひとりとなった。しかしその翌年2月27日、シューマンはライン河に投身自殺を図り、精神病院へ措置入院させられてしまう。その報を聞くや否や、彼はデュッセルドルフのシューマン宅に駆け付け、泊まり込んでクララと子どもたちに寄り添った。二人の間には、生涯の間に交わされた数百通に及ぶ書簡が遺されている。その初期には二人の率直な想い、思慕の念が記されているが、やがてブラームスが世に認められた作曲家として多忙を極めていくなかで、二人の関係はより深い精神的な繋がりが主となっていく。
 ブラームスはベートーヴェンを超える作品を生み出さなくてはならないという重圧と戦い、交響曲や弦楽四重奏を生み出すのに20 余年の歳月がかかった。一方、「ベートーヴェンには弦楽六重奏曲がない」ことが幸いとなったか、彼は1860 年、27 歳で〈弦楽六重奏曲 第1番 op.18〉を完成させ、ウィーンに拠点を移した後の1864には〈第2番 op.36〉に着手している。しかし、1855年以降のクララ宛ての手紙の中に、たびたびこの曲のスケッチが現れていることから、実際には〈第1番〉と並行して着想されていたのだろう。ブラームスはデトモルトの宮廷ピアニストを務めていた1858年に、大学教授の娘だったアガーテ・フォン・ジーボルトと知り合い、互いにひかれあう関係となったが、翌59年、彼がアガーテに送った手紙が彼女を傷つけたことで、彼女から別離を告げられている。ブラームス研究においてこの出来事が重要な意味を持つのは、ブラームスが抱いたクララ以外の女性に対するただ一度の恋愛感情ということ以上に、本作の第1楽章提示部の結尾部分に3回現れる第1ヴァイオリンの音型(162小節目の3拍めから)が、四分音符で「A-G-A-H-E」(ラ-ソ-ラ-シ-ミ)、つまりアガーテの名を表しているのではないか、ということだ。伝記作家マックス・カルベックによるこの仮説は、ブラームスがこの作品によって失恋を振り切らんとした、というものだが、彼の心の内は謎に包まれたままだ。
 弦楽六重奏曲において、ブラームスは2本ずつに増えたヴィオラやチェロに自在に旋律を当てはめることで、陰影豊かで叙情的な世界を作り出している。またこれらの作品は、師と仰いだシューマンの芸術に共感し、ドイツ音楽の本流の一方を牽引していくことになる若き日のブラームスが、自由な発想による積極的な創作の試みによって自らの実力を試し、評価を確立したという、彼にとって重要な作品である。抒情的で息の長い旋律による第一主題と、憂いを帯びた第二主題を対比する確固としたソナタ形式の第1楽章は、弦楽六重奏という豊かなサウンドにも甘んじない、ドイツ古典音楽の後継者たらんとする意志と、音色の多彩さから自在に旋律を受け渡すロマン派の横顔の両方が見え隠れする。スケルツォの第2楽章は哀愁を帯びたハンガリー風の旋律、そして第3楽章は主題と5つの変奏から成る緩徐楽章。最後は、ヴァイオリンによって静かに提示される第一主題と、チェロによる伸びやかな第二主題が対比されたソナタ形式の第4楽章によって締めくくられる。

ドヴォルザーク/ピアノ五重奏曲 第2番 イ長調 op.81
 アントニーン・ドヴォルザーク(1841~1904)は、18世紀にはオーストリア帝国が支配していたボヘミアの中心地、プラハにほど近い小さな町ネラホゼヴェスで、宿屋兼肉屋の長男として生まれた。家業を継がせたかった父の意向に反して、プラハのオルガン学校に入学し、苦労しながら音楽家を目指している。21歳となる1862年、民族主義の高まりとともにチェコ人自らの手による「国民劇場」の建設が決まり、彼はその仮劇場付きのオーケストラにヴィオラ奏者として入団。同オーケストラの指揮者であったスメタナ(1824~84)からの教えを受けて、民族音楽の旋律からヒントを得たメロディを作曲に用いるという独自の作風・技法を考案し、1873年に発表した賛歌〈ピラー・ホラー(白山)の後継者たち〉によって楽壇にその名を知られるようになる。1877年には〈モラヴィア二重唱曲〉がブラームスに認められ、オーストリアの奨学金を得られたことで作曲に専念できるようになった。
 1872年、ドヴォルザークはイ長調の〈ピアノ五重奏曲〉(第1番)を作曲した。だが彼はこの作品に満足せず、出版もされなかった。そして一時的にこのジャンルへの興味を失い、自筆譜も失われてしまう。それから15年以上が経った1880年代の半ば、彼は友人に宛てた手紙で、今は新しいものを作曲しているわけではなく、古い作品を改良して出版社ジムロックに送っている、と書いている。〈第1番〉についても改訂しようとして、友人のルドヴィート・プロハスカを頼り、演奏譜の写しを探してもらっている。見つかった筆写譜を見た彼は、しかし当時と現在で作曲法に関する考え方が大きく変わってしまっていることに気付き、改訂を諦め、同じ調性で全く新しいピアノ五重奏曲を書くことに決めた。それが、1887年10月に完成した〈ピアノ五重奏曲 第2番 イ長調 op.81〉だ。翌年1月にプラハで初演され、5月にはロンドンでも演奏されて、この作品は世界的な成功を収めた。第1楽章冒頭、ピアノの穏やかに揺れる伴奏に乗って奏でられるチェロの抒情的な旋律は、突如激しく力強いパッセージが割って入る。再び穏やかな旋律が、今度はヴァイオリンに回帰し、またもや激情に押し流されるように雰囲気を変えると、民族音楽風の第二主題がヴィオラによって奏でられるが、それもまた熱気に満ちた旋律に取って代わられる。ドヴォルザークはこれらの主題要素を、ソナタ形式の枠内で余すところなく駆使している。第2楽章は古いスラブの嘆きの歌に起源を持つ民族音楽ドゥムカ、切なくも魅力的な旋律が印象的。第3楽章にはボヘミアの古い舞曲フリアントと題されているが、高速ワルツの趣き。そして迎える終楽章は、冒頭の序奏の後に奏でられる、前進するエネルギーに満ちた第一主題と、抒情的な第二主題が対比的に繰り返され、展開部には第2ヴァイオリンから始まる第一主題を使ったフーガが組み込まれている。最後は力強い盛り上がりを見せるコーダによって、華麗に全曲が結ばれる。


演奏者紹介

※演奏者は変更となる可能性があります。

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