木曽音楽祭とは

木曽音楽祭とは

自然と音楽の調和

「自然と音楽の調和」をメインテーマとして掲げるクラシック音楽の祭典。
多数の一流アーティストが集い、緑豊かな木曽駒高原からクラシックの名曲をお届けします。
今日、日本では数多くの音楽祭が行われるようになりましたが、この音楽祭はその礎となったといわれる老舗の音楽祭です。
毎年多くの方々に支えられて開催し、多くの方にご来場いただいております。

木曽音楽祭ってどんなコンサート?


「演奏家自らが真に演奏したい曲を選曲し、合宿して完成させる。それゆえに、他ではめったに演奏されることのない曲が演奏される。」
~卓越した技術、そして演奏を終えた後の演奏家の格別な表情が、観客を魅了します。

「何もない大自然が、心ゆくまで余韻に浸らせてくれる。」
~ホールからベッドの中まで余韻を持ち帰り、そのまま眠りにつけるのは、木曽ならではの贅沢です。

「ボランティアの支えで音楽祭が運営されている。」
~演奏家の食事や宿泊先などは、地域のボランティアによって賄われています。多くのボランティア活動なくして、この温かみのある素敵な音楽祭はありえないのです。

山本ディレクターインタビュー

木曽音楽祭について、木曽音楽祭ディレクターの山本正治氏が語る「クラシックニュース」インタビューは下記をご覧ください。

木曽音楽祭の歴史

プロローグ

1973年、木曽フィルハーモニック協会が発足する。これは、地元のクラッシック愛好家達が、ナマの音楽を聴く機会に恵まれない木曽に「自分たちで、演奏家をよんで、演奏してもらおう」と呼びかけ発足したもので、10月20日の協会発足記念演奏会以降、毎月のように著名な演奏家を招いて演奏会を開いていた。当時長野県内でも珍しかったこうした定期的な演奏会が開催できたのは、ひとりのキーパーソンの存在がある。若き楽器製作者、飯田裕氏(当時24歳)である。

氏は、世界一の楽器作りを目指し、イタリヤ・リミニの名匠カビキオーニに師事し、`71年ふらりと立ち寄った木曽福島に移り住んだ。楽器作りのかたわら「絵・音楽。文化は何でも東京でなければダメだ−−という雰囲気がいやなんです、良い文化に接する機会があれば、地方にだって、それなりの文化が育っていいはずだ」との思いから、楽器づくりで知りあった演奏家を木曽に呼んだ、また演奏家も、「貴重なふれあいが忘れられない、上野の文化会館にはない手ごたえがある」と交通費程度の出演料で、ホールもコンサートピアノもない木曽に訪れ演奏会を開いていた。

そんな地道な活動が2年間ほど続いた後、1975年8月ビオラ奏者の最高峰として世界に知られるウィリアム・プロムローズ氏が、木曽福島に3週間滞在し公開レッスンと演奏会を開催した。これは、前出の飯田氏がその前年に、プリムローズ氏が当時客員講師をしていた東京芸大に訪ね、自作のビオラを見てもらった事にはじまる。その時プリムローズ氏は「良くできている。私の弟子たちに紹介してあげよう」と高く評価してくれたという。

その後、飯田氏の招きに同氏は快く、「日本の弦楽器奏者は世界でも有望な素質を持つ人が多く、私に習いたがっている。カナダでのレッスンもあるので、ついでに日本に寄って、楽器をみたり、レッスンをしよう。」と、話が進んだ。 

1975 年8月11日、巨匠プリムローズ氏の若手演奏家に対する公開レッスンが始まった。時には厳しく、時にはやさしく、緩急自在の指導は、71才の年令を感じさせぬ素晴らしいものがあった。若手演奏家も、「国内での指導しか受けていない者には、いい勉強になる。」と語った。レッスン終了後の8月22日夜、静かに雨のふる木曽福島の小学校講堂で開かれた演奏会には、町民ばかりでなく、東京、神奈川から巨匠の演奏を聴こうと集まった500人ほどの聴衆は、建設後約半世紀を経た木造の校舎に響くビオラの調べに静かに酔い、また、プリムローズ氏も「反応が素直で、高い水準の聴衆だ。ベリーグット。ベリーグット」と、目を潤ませて感激し、翌日開かれた同氏の誕生パーティーでは「素朴で熱気のある聴衆、若い演奏家、すばらしい自然をプレゼントしてくれた木曽に毎年来たい」と再会を約束した。こうして、この小さな町での音楽祭はスタートした。

マールボロを目指して

翌年の1976年、ブルーノ・ジュランナ氏が東京での演奏会の合間を縫う形で来町した。

演奏者と聴衆が同じフロアでの演奏会は、さながらホームコンサートといったおもむきで、小さな会場にすし詰めになった聴衆は、間近に見る演奏に音楽の神髄を堪能した。

この年さらにこの音楽祭を飛躍させようと、当時の町長であった唐沢久雄氏とその婦人である美貴さんらは、人口600人のちょうど木曽福島のような片田舎を音楽祭によって甦らせた町、アメリカ・バーモント州にあるマールボロに行き、音楽祭の運営を学んだ。

今では日本でも珍しくなくなったが、当時国内でも例のなかった公開レッスンと演奏会を行う音楽祭を木曽の地に根づかせ、木曽の地を日本のマールボロにとの思いをあらたに、1977年第3回には、ミルトン・トーマス氏を迎え、1978年第4回では、それまでビオラ部門だけであった公開講座に、ピアノとヴァイオリン部をあらたに加えた。受講者も年々増え続け、遠く海外からの受講者もあらわれ、国際という名に恥じない音楽祭へと成長していった。

組織もこうした音楽祭の成長に対応する為に協会を社団法人化し、いつか自分たちの手で音楽ホールを建設しようと夢も大きかった。1979年、世界の音楽的事件ともいえるプリムローズカルテットの再演がこの音楽祭で果たされる。このカルテットはトスカニーニの要請によって編成され、戦前最高のカルテットとして名声を博していたが、先の大戦で演奏活動が途絶え、このとき実に34年ぶりの再結成であった。

このときから、一時公開レッスンが行われなくなるが、あらたに組織した木曽福島国際音楽祭組織委員会は、各界の著名人を役員に迎え全国的な組織での開催となる。

若手を加えて拡大へ

第6回では、フルニエ。7回では、ゴリツキー3兄弟と、華やかになっていく音楽祭ではあったが、出演料・渡航費等の経費は入場券の売上げでまかなえるものでは到底なく厳しい財政状態であった。
これをなんとか改善しようと始めたのが、「木曽の糀味噌」販売による資金集めである。前出の唐沢さんの店で天然熟成して造られた「本物の味噌」を買ってもらいその収益で音楽祭を支えてもらおうというもの。"大きなスポンサーひとりを得るより、小さなひとりひとりが支える音楽祭の方がずっと素敵"と考えたこの運動に全国から支援が寄せられた。
1982年5月、木曽の地を第二の故郷と愛してくれたプリムローズ氏の訃報がもたらされる。婦人に見守られ、木曽で出会った最後の愛弟子、高平純氏の弾くヒンデミットのテープを聞きながらの永眠であったという。この年の音楽祭の第一夜は、亡きプリムローズ氏を追悼したプログラムが組まれた。
この年から、企画構成に金昌国氏、久保陽子さんらが参画し、演奏家と地元ボランティアが一緒につくるという、この音楽祭独特の雰囲気が強まった。また新しい試みとして、第一線で活躍中のプロと若手との交流を目的に、その前年の毎日NHK音楽コンクール優勝者やオーディションで選考した若手を加え、出演者は一気に40名にもなった。この年からプログラムにベートーヴェンの交響曲を加え、1番から順に演奏していき「9年目には"第九"を地元のコーラスで」との企画もあった。

木曽音楽祭へ

1983年に第9回、1984年の第10回では、公開講座も復活し(講師にハンス・ペーター・シュミッツ氏)、オーディション参加者66名(内11名合格)、出演者も50名と過去最大規模の音楽祭となるが、大きくなった音楽祭は、音楽愛好家で作ったボランティア組織では、支え切れなくなってしまった。演奏家の好意で破格の安さの出演料、宿舎もホテル等ではなく、理解ある方に山荘を提供して頂いたり、ボランティアの家へのホームスティでまかない、食事もボランティアで主婦らがお世話する、などできる限り節約しての開催であったが、毎回赤字は出た。それを、その都度寄付を集め、味噌を売った収益をあて、それでも足りない分を唐沢さんらが補填した。「音楽祭の質だけは落したくない」との熱意も限界に達した。以後の存続も危ぶまれた音楽祭であったが、これまで続けてきた音楽の火を絶やすまいと、旧木曽福島町に全面的な協力を要請し、要請に応じた町がそれ以後、地域文化の向上や過疎対策の一環として、事業計画・運営に本格的にかかわることとなる。名称も、「木曽福島国際音楽祭」から、「木曽音楽祭」に変更し規模こそ縮小したが、音楽祭は継続された。

飛躍

1986年新たに「木曽音楽祭実行委員会」を発足、事務局を旧木曽福島町教育委員会に置き、町・地元住民・演奏家という現在までの体制を確立し、12月には「木曽音楽祭東京後援会」も発足。外部からの協力も得て、手さぐりではあったが年々着実に入場者数も増え、財政的にも適正化が計られた。施設についても、当初町の体育館を利用していたが、第16回からは、700人程度収容できるホール(木曽文化公園文化ホール)が木曽郡の施設として整備され、現在はそこで開催している。このような経過を経て、1994年、第20回の音楽祭が開催された。出演者総勢38名、4日間で5つのコンサート、合計20曲を演奏し、2,445人の入場を得、盛況のうちに幕を閉じた。


この山深い地に蒔かれた音楽祭の小さな種は、30年を経て現在木曽の地にしっかり根づいてる。ここまでの経過は決して平坦なものではなかったが、音楽を木曽を愛する人々に支えられて成熟し、現在音楽祭は、クラッシクの真髄である室内楽を中心としたプログラムが組まれ、曲目は通例のコンサートでは登場まれな曲が演奏家の深究心によって厳選され、高いレベルで結実している。また、一週間の木曽での合宿といったおもむきの滞在は、演奏家同志の交流の場、研鑚の場を提供するものとして、参加する演奏家に好評価されている。これまで触れてきたように、この音楽祭の運営はボランティアによって支えられてきた。その形は変わりつつあるものの、その精神は今でも受け継がれ、息づいている。そのことが、手作りの音楽祭として独特の雰囲気を醸し、演奏家の、そして聴衆の再訪を約束させている。今年も夏の終わりを告げる風物詩として、マエストロの音が木曽谷に響く。

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特集番組

2014年に第40回目の音楽祭を開催しました。第39回木曽音楽祭音楽祭をご紹介しながら40年の歴史を振り返る番組を制作しましたのでご覧ください。